やっぱり左右共闘は可能だ。

「ニッポン解散」続・憂国呆談を購入して読んだ。これは田中康夫浅田彰の対談をまとめたものだ。私はかなり前から読んでるが、彼らの対談を読んでると、真の保守と、真の革新は共闘出来るということが感じられる。本書の中でもそれを認めるような発言が随所に見られる。

 以下、抜粋。

田中康夫「両端に位置するクラッシックとジャズが実は通底しているように、市民と言う言葉を敢えて用いて真の国民益を希求してきた我々と、国民という言葉を用いて真の国益を追求してきた面々が、同じ社会認識を抱く時空に巡り合わせる今と言う時代の不思議さだね。」

田中康夫「嘗てナチス傀儡政権のヴィシー政府がフランスで跳梁跋扈した際、後の大統領であるシャルル・ド・ゴールが、彼自身は国家主義者だったにも拘らず、「フランス」を取り戻し、「フランス」を守り育てねばと、社会主義者共産主義者どもと手を取り合った歴史を、今こそ日本に暮らし、学び、働く我々は思い起こすべきなのだと感じるよ。」

浅田彰ド・ゴールっていうか、むしろ反ファシズム人民戦線って感じかな。社民党の言うように、自民党民主党ではカレーライスとライスカレーの差くらいしかないっていう大政翼賛状況で小泉純一郎の暴走を止め、石原慎太郎を先制/抑止するためには、もう悠長なことは言ってられない、大異を残して大同につくしかない、と。」

浅田彰「小泉みたいなやつが市場原理主義で暴走すると、ある種、国権派と真の民権派が最低限綱領では一致しちゃうわけだ。」

 私は国民新党を支持しちゃうような奴だから、ヒダリの人じゃない。でも、浅田や田中らの言葉を借りて言えば、「日本」を取り戻し、「日本」を守り育てねばと思う私は、新自由主義者の暴走を止めるためには、社会主義者共産主義者と手を取り合うべきなのであろう。
 
 「もう悠長なことは言ってられない、大異を残して大同につくしかない」のだから。

最後に有名な牧師さんの言葉を引用する。

マルティン=ニーメラー

ナチが共産主義者を襲ったとき,
自分はやや不安になった.
けれども結局自分は共産主義者ではなかったので
何もしなかった.
それからナチは社会主義者を攻撃した.
自分の不安はやや増大した.
けれども依然として自分は社会主義者ではなかった.
そこでやはり何もしなかった.
それから学校が,新聞が,ユダヤ教徒が,
というふうにつぎつぎと攻撃の手が加わり,
そのたびに自分の不安は増したが,
なおも何事も行わなかった.
さてそれからナチは教会を攻撃した.
私は教会の人間であった.
そこで自分は何事かをした.
しかし,そのときにはすでに手遅れであった.