努力はどの程度有効なんだろ

 最近、日本は自己責任ブームだ。ニート、フリーター叩きなんてその典型的な例なんだけど、地方は独立せよ、年金なんてあてにならない、なんてのも自己責任的な議論に終始している。
 個人の能力に限界があるので国家とか政治と言うのが存在するはずなのだが、最近はそういう議論はあんまり聞かない。政府にその役割を求めようとすると「依存」するな「自己責任」だ、などと突っぱねられる始末である。(「自由」と言う言葉でごまかされたりもする。)地方に助成金を与えてるのも地方がそもそも自立の能力に欠けるというどうしようもない現実があったからだ。首相自ら「自己責任」「地方分権」などと自らの役割を否定するような発言をする始末である。
 この風潮に押されたのか、フリーターやニートは個人の努力不足という側面だけ強調され、当事者は「怠け者」と罵倒されておしまいである。自分の給料が下がってもいいから多くの人を雇い入れよう、なんて言っている中高年を私は見たことがない。有効求人倍率が1より小さかったら、いかに個人が努力しても誰かは職にあぶれるのである。これは個人の努力で変えれない。
 地方に努力しろと言ってみたところで、人口、行政、官庁、大企業、大学が東京に集中してしまっているので、地方の努力なんて鼻くそみたいなもんである。東京がその既得権益を地方に分け与えましょう、などと言う議論は聞いたことない。(石原は明確に反対している。)
 嘘か本当か、戦争中に「竹やりでだってB29を落とせる。精神力さえあれば可能だ。」というスローガンがあったそうだ。(すまん、確かなソースは無い。)そういった類のスローガンで個人個人に徹底的な努力を強いたそうだ。しかし日本は戦争に負けた。結果論だが、戦争の勝敗は国家の元々持っている力に拠る因子がほとんどを占め(人口、鉄や銅の生産量、石油の埋蔵量とか)、個人の努力なんぞほとんど関係ないからではないのだろうか。
 なんだか現代の日本人はこの竹やりの話を笑えないのではないだろうか。今の世相も個人のさらなる努力を強いているはいるが、圧倒的な周囲の現実は変わらない。努力は大切だが、努力が報われる環境がないと努力なんて空回りしておしまいである。その「努力すれば報われる環境を作る」のが政府の役割のはずだ。それが無い限り、努力は空回りせざるを得ず、個人はますます虚無感を増大させるだけはないか。 
 ミクロ(個人の努力)の積み重ねじゃマクロ(圧倒的な現実)は変わらないのだよ。
しかし、そうは言っても自分は努力しようとするんだけどね(笑)