なんで結論ありきなんだろう

 
 内田先生のブログを読んでいて激しく同意したのだが、この一文である。
 

 「参拝すべき」と回答した中で、中国政府の「悪口」を書かずに、感情を排して法的・論理的・政治的な判断のみに依拠して論じていたのは宮崎哲弥橋爪大三郎ら数名だけだった。

 これは靖国参拝問題についての文章であるが、こう言った傾向は靖国参拝に限らずに他の話題でもそうである。
 いわゆる論壇誌と言われるものの中でも、ほとんどの文章が感情的な決め付けから出発しており、根本的に誤っているものが多いのである。もちろんその文章内での論理性はそれなりに一貫していたりするのだが、議論のスタート地点がおかしいのだから、トンデモ本と変わらないような内容なのだ。
 つまり現状を正確に認識するという、考察における最も重要なことが出来ていないのである。もちろん私本人だって出来ていないことが多々ある。しかし、それらの雑誌に寄稿している人たちはいわば「プロ」な訳であり、私のような素人とはその文章の品質が格段に違っていなければならないはずである。
 このような文章は自分の偏見を正当化するため、もしくは同じような偏見を抱いている人々を安心させ、さらに偏見を増幅させる効果のために存在しているとしか言いようが無い。これでは単なるデマゴーグをばら撒くために存在しているとしか言いようがないではないか。
 ひょっとしたら論壇誌というものも、音楽雑誌の文章と変わらないのかもしれない。つまり、最初っからそのアーティストを持ち上げる意図で書かれているのだから、それ以外のことは無視してしまうあの文章である。とにかく「○×最高」「◆△最低」なわけである。
 私は音楽雑誌ではこれは許されると思っている。だって、音楽はどう聴こうがどういう感想を持とうが自由だからである。
 しかし、論壇誌はどうであろうか。そこには一応「権威ある」とされる人物が登場し、何か社会的に重要であると思われる事柄に対して論評している、と多くの人々は思っているわけである。つまり「権威ある人は何か正しいことを言うはずである」という前提がある。
 しかし、その中身を長年見ているとその認識を改めざるを得ない。つまり論壇誌と言うのは本当は「これはこうだよね」と思っている読者を安心させるものでしかないのではないか。そのような目的のためにあるのだとすれば、安心をもたらすためには、ぶっちゃけ嘘でもいいということになる。とにかく外資を悪に描けばいいし、中国を悪者に描けばいいし、守旧派を悪者に描けばいいのだ。何が悪者で、何が正義かはその雑誌の対象とする読者層に合わせればいい。そこに論理性は欠如していて構わない。
 もちろん内田先生も述べているように、論壇誌に掲載されている全ての文章がそうではない。中にはちゃんとした文章だって含まれている。つまり「それなりに客観性のある現状認識」から始まり「論理的な考察」を経て「(それなりに)妥当であると思われる結論が導き出される」文章である。
 こういうのが少数でもあれば、そういった雑誌は存在している意義があると思わなければならないのかもしれない。それ以外の文章はいわゆる「血液型別性格判断」と同じレベルのものだと認識すべきだ。(その人はA型だから真面目とか言う、あの腐った会話である。)
 また音楽の喩えになるが、アルバム1枚を買ったとしても全てが最高の曲と言うわけではない。やっぱりスカも混じっている。「権威ある媒体」というのもそれと同じようなものであると認識すべきなのかもしれない。
 そうしないと真面目に文句言ってたら精神衛生上悪い。長年こういう状態が続いていて改まらないのだから、未来永劫、論壇雑誌なんて「そんなもの」なのであろう。