内田先生のニート考

 この頃、ニートという言葉をよく聞くようになり、雑誌やインターネット上のニートに関する色んな文章を読んだりしてた。しかし、若者はケシカラン論、とか若い世代と古い世代の対話とか、イマイチ納得できない議論がほとんどだった。
 私自身の答え(らしきもの)としては、日本は豊かだから、そういう奴が出てくるのは当然じゃない?なんて言う、極めてナイーブな意見しかもってなかった。

 しかし、このたび、もっと深いレベルでの考察を見つけた。

 資本主義の黄昏と題されたこの文章である。
 すごい本質をついた意見だと思った。内田先生の文章は難解なのが多いが、今回のは分かりやすい文章だ。
 
 以下、すごいと思った文章の引用

「勉強も仕事も、なんか、やる気がしない」というのは、言い換えると、「『やる』ことの『意味』が私にはよくわからない」ということである。
彼にとって、問題は「意味」なのである。
「意味がわからないことは、やらない」
「自分の能力適性にふさわしい職種と待遇としかるべき敬意が保証されないなら、働きたくない」
これが私たちの時代の「合理的に思考する人」の「病」のかたちである。
NEETというのは、多くの人が考えているのとは逆に、「合理的に思考する人たち」なのである。

 なるほど!!そうなんだ!ニートは「合理的に思考する人たち」なんだ!!
合理主義を突き詰めると全ての行為の意味を問わねばならない、すると上のように合理的な行動を人間は取るのだ!

 内田先生はだからニートは正しいと言っているのではない、続けて以下のように彼らを批判する。

彼らの盲点は、「学び」というのは「自分が何を学ぼうとしているのかが、よくわからない(だからわかりたい)」という「非-知」に動機づけられるものであること、「仕事」というのが「とりあえず何か余計なものを作りだして、他人に贈る」という「非等価交換」であるということに気づいていないという点である。
いや、気づいていないのではなく、あえて見落としているのである。
なぜなら、彼らの「合理的思考」は、彼らを扶養している親たちの「非合理的な」子どもへの「愛」や「有責感」に依拠しているという事実は「勘定に入れない」でいるからである。
自分は「他者からの贈与」に依拠して生きているが、自分が「他者への贈与」の主体になること(それが「労働」ということの本質である)を拒否する。

 全く正しい!私が今までに読んだ、ニートに対する考察の中でもっとも本質を突いている言葉である。
 人間は合理だけで構成されているのじゃない、非合理な部分も併せ持っておりどちらかだけでは生きていけないのだ。
 ここまでは同意する。しかし私は次のように問うてしまう。
 では「合理的に思考する」「病」から抜け出す方法は存在するのか?
 内田先生は次のように言う。

NEETにむかって学びと労働の必要性を功利的な語法で説くのはだからまるで無意味なことなのである。
それとは違うことばで学びと労働の人間的意味を語ること。
それが喫緊の教育的課題なのであるが、そのような「新しくて、古いことば」の必要性を痛感している教育者は、現代の学校教育の場においてはほとんど発言の機会を与えられていない。
声が大きいのは、「この資格を取れば、就職に有利だ」とか「このスキルがあれば、競争に勝てる」というようなせこいことを言う人間ばかりである。
NEETを生み出しているのは、このような功利的教育観そのものなのである。

 
 読む限りでは私の問いに対する答えはちゃんと書かれていない。内田先生の「新しくて、古いことば」を是非、聞いてみたいと思うのは私だけであろうか?