そうだったのか!

 大学の先生がこんなことを書いている。

 http://blog.tatsuru.com/archives/000880.php

例えば、「本を読んで自分の感想を自由に書く」というのと「漢字を100個覚える」というのでは、何となく前者の方が自由度の高い、学力差のつかない教育法であるような感じがする。
しかし、家庭内に語彙が豊かで、修辞や論理的なプレゼンテーションにすぐれた人間が何人もいる子どもと、そうでない子どもの間では「自分の気持ちを自由に表現する」ことにおいてすでに決定的な差が存在するだろう。

 直感的にはそんな気もする。
 しかしながら、我が家の話をすると、これはあんまりあてはまってない。
 前にも書いたけど、私は小学校のころ「本を読んで自分の感想を自由に書く」という行為が大嫌いであった。しかしながら私の兄弟は非常に得意で、賞まで取っていたのである。
 我が家の教育は主に母親が行っていたけど、高卒だったし、今思い返せばどう考えても語彙は豊かじゃなかった。「アホ、バカ、スカタン」とか私に日常的によく言ってたし。非科学的なことをいっぱい言っていた。細木数子(!)の本とかあったし。他にも料理の本とかの実用書の類とか占いの本以外を読んでるのを見たことないし。とても知的とは言いがたい人であった。父親だってめったに話さなかったけど、口を開けば「理屈をこねるな」だの「お前はA型だから〜〜だの」とんでもなく非論理的、非科学的である。こんな我が家のどこに知的な環境があったと言うのか。
 
 さらに気になることが書いてある。

「相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、『将来のことを考えるより今を楽しみたい』と思うほど、『自分は人よりすぐれたところがある』という〈自信〉が強まるのである。同様に、(…)社会階層の下位グループの場合にのみ、『あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活にたいした違いはない』と思う生徒(成功物語・否定)ほど、『自分は人よりすぐれたところがある』と思うようになることがわかる。」(198頁)
つまり、「現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。」(199頁)

苅谷さんは97年の統計に表われたこのような「ねじれ」は1979年段階では見られない点を指摘している。
階層間で自己有能感形成のメカニズムに差異が生じたのは、ごく最近の現象なのであり、それは強化されつつ進行しているのである。
そこから導かれる暗澹たる結論は次のようなものである。
「結論を先取りすれば、意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。」(211頁)

 この前半の部分は本当なんだろうか?要は「勉強しねえ、従って当然ながら「できない」やつは自分は人より優れたところがある、と思っている現状がある」ということらしいけど。
 「勉強しない」っていうのは「勉強ができない」というのを別の言葉で置き換えてるだけでしょ?よくある自己正当化と思われ。人間って自分の人生を正当化するように思考するし。だってそうじゃないと生きていけないからなんだけど。私は学歴は低いけど高校時代はすばらしい友達に恵まれた、進学校では親友はできなかった、とかさ。よく聞く話やん。個人的な物語としてはアリだけど、客観的には嘘だよ、そんなの。でもそれでいいんだよ。私だって自分で気づいてないだけで変なこと言ってるだろうし。
 でも、なんでそれが自信につながるんだろ?根拠のない自信・・・それは単にバ○とか世間知らずで語られる言葉じゃないのかな?でもそんなん、就職活動するなり、実際に就職するなりして現実に遭遇すれば粉々に砕かれると思うけどな。この統計はきっと高校生が対象だから、まだ世間が分かってないだけのような気もするが。ようは社会が豊かになって世間知らずでいられる時間が増えたじゃないの?でも、そう言うやつに限って、社会人になったら急に説教くさくなるのは何故だ。元ヤンの説教ってよくあるだろ。
 後半部の「統計」もなんでも疑ってしまう私はなんか疑いのまなざしを向けてしまう・・・HPを検索したらこの図を発見した。
 
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/education/education023.htm

このHPの作者を信用する限りはこの統計のことらしいな。
 たしかにこの統計ではそういう傾向があるみたいだけど、なんで80年代後半とかの途中の統計がないのだろうか?18年も開きがあるのは不自然だ。年毎にバラバラだった可能性もある。
 それになんで他の設問の統計はないのだろうか?
 原典には載ってるのかもしれない、原典をチェックするしかないけど、この図だけ見ても納得はいかない。
 社会階層の問題で言えば、親の社会階層が上の子供って勉強できなくても、裏口入学できちゃったり、大学がたいしたとこじゃなくても、親のコネで就職が決まったりする現実ってあるし。これじゃあ、親の社会階層が低い子供はやる気なくすわな。一流大学への進学確率が高い中高一貫校に入れれるのも親の財力という社会階層の力がなきゃ無理だし。もちろん本人の力も必要だけど、不公平だ。

 さらにこのブログの人はこうも書いている。

 メリットの構成要素のうち、とりわけ「努力する能力」はあきらかに出身階層の属性要因の影響を受けるからである。

 これは自らの役割(大学の先生でしょ??)を放棄したような文章じゃないのかな。大学の先生がこんなことを堂々と表明していいのかしらん?生徒に努力させるのが先生の役割じゃないの?先生の生徒は上流社会の方ばっかりなのでしょうか?まあ、生徒の前では教育者にふさわしい態度を取ってるのかな。でもブログでこんなこと書いたら生徒が見て先生に不信を抱く気もするが。

 http://miraikoro.3.pro.tok2.com/education/education023.htm

を見れば、このブログの著者が引用している苅谷剛彦氏は、子供の学習意欲を促進する教育の場が親の社会階層にかかわらず平等に受けられる社会を目指すべきだ、と書いているようだ。これは私も激しく同意である。状況を見て絶望してても意味ないです。改善する方向に導きゃいいだけでしょ。 
  
 最後の方の文章は高尚すぎてようわからん。前半はそれなりに実際的な話だったのに、ここでは急に哲学に飛んでいる。

オルテガは「自分以外のいかなる権威にもみずから訴えかける習慣をもたず」、「ありのままで満足している」ことを「大衆」の条件とした。オルテガ的「大衆」は、自分が「知的に完全である」と思い上がり、「自分の外にあるものの必要性を感じない」ままに深い満足のうちに自己閉塞している。これはニーチェが彼の「貴族」を描写した言葉とほとんど変わらない。つまり、ニーチェにおいて「貴族」の特権であった「勝ち誇った自己肯定」が社会全体に蔓延した状態、それが、オルテガの「大衆社会」なのである。(現に、『大衆の反逆』の刊行の一年後に、ニーチェの「貴族主義」を看板に掲げた20世紀最悪の「大衆運動」がドイツで政権の座に就くことになる)。

 私はオルテガを読んだことがないからこの文章から判断するしかないのだけど、「「ありのままで満足している」ことを「大衆」の条件とした。」とするならば、今の日本はこういう人が多いのは確かだ。だってそういう歌詞のJ−POPとか作家の言葉ってあふれてるじゃない?(SM○Pのヒット曲とか、あいだみ○をの言葉とか。私は嫌いだけど。)
 後半部分の「自分が「知的に完全である」と思い上がり、「自分の外にあるものの必要性を感じない」ままに深い満足のうちに自己閉塞している。」っていう人はあんまり会ったことないぞ。自分の外にあるものって「自分以外のいかなる権威」でしょ?
 現状は違うと思う。J−POPの歌手だって、謎の詩人だって、TVに出てくる有名司会者だってかなりの影響力を持ってるでしょ。某有名司会者の薦めた野菜がその日のスーパーで売れるとか、若手ジャニーズのタレントの着てた服が売れるとか。若い人向けの雑誌だって、(いや、私がここで言うのはは「S○A!」とか「S○A!」だけど(爆))モテる方法とか(絶対に嘘だと思うけど)、「確実に儲かる」と書いてある怪しげな投資方法(これも絶対に嘘だ!)がいっぱい載ってるじゃない?なんじゃら証券のエコノミストとか漫画家のコメントと一緒に。あの雑誌って売れてるんでしょ?
 こういう現状は、自己閉塞とは程遠いと思うけど。。(変な社会で閉じてるのは確かだと思うけど。)
 でもこれだって一種の権威主義でしょ?。脆弱で薄っぺらい権威だけど。みんなが信じている限りは権威である。(っていうか信じるなよ、こんなの)
 どんなにインチキくさくたって、これは「自分の外にあるものの必要性を感じている」状態だと思われ。それはCDのセールス数とか、視聴率とか、書籍や商品の売り上げとか、特定銘柄の一時的な値上がりで如実に示されてるわけで。
 やっぱり何かの「権威」にすがってるんじゃないの?
 まあ、アホな茶々入れはこのくらいにして、先を見る。最後の最後の文章も気になる。

オルテガ大衆社会論を苅谷さんの本を読んだあと読むと、なんだか背筋が寒くなってくる。

 へ?苅谷剛彦氏は「社会階層間学力格差の拡大」が問題だと思っていて、その状況を打開する案を出してるのでしょ?苅谷氏のように社会を改善する方向に色んなことを変えればいいだけじゃないの?なんで背筋が寒くなるんだろうか。なんか急に違う話を結び付けようとしてるので混乱する。
 どうも前後の文脈を読む限り(この部分だけ3回読みました。アホですまん。)は「子どもの学力は母親の学歴と相関する」現代の我々の社会がナチスが登場した戦前のドイツのような危険な全体主義社会(これはオルテガが『大衆の反逆』で描写した世界が現実化したものなのだとこのブログの人は主張している)に近づいている、とでも言っているようだ。
 暗示的すぎる、私のような男に一読して分かるようにかいておくんなまし!まあ、単に読まなきゃいいですけどな。
 軍靴の足音が聞こえてくるってか?朝○新聞ですか?(笑)
でも、そんなのそうならないように努力すればいいだけじゃね?背筋が寒くなるのは悲観的すぎる気がするけど。
 この文章を書き終えて、このブログをトラックバックしている人の文章を今読んだけど、立派な難しそうな文章ばっか!こどもニュースをよく引用する私にはついていけん。この先生のブログは高尚な人専用だったのね。それらのブログも一読したけど難し杉。
 知らないで突っ込んでごめんなすって。だからTBはしません。(って、いつもしないけど)