あれは日本人に書くことを嫌いにさせるシステムだ

 子供のころ、長期休暇には必ずと言っていいほど感想文を書くことを強要された。
しかし、小学校中学校のころの私は本が嫌いであった。読む本は全てマンガであった。活字を読むのが苦痛でならなかったのである。読むだけで苦痛だと言うのに、その苦痛の体験について感想を書けという。書かねば落第だと教師は脅す。今考えれば義務教育で落第なんてするわけなかったのだが。私も子供であった。
 しょうがなく悲しかっただの、うれしかっただの、どうでもいい言葉を書き連ね要求された枚数を書いた。あんなものを読まされた教師も気の毒であっただろう。しかし、一番苦痛だったのは私である。私の人生でもあんなに苦痛な体験はあまりなかった。
 本を読んでの感想を書け、なんて余計なお世話である。本なんて読みたいやつが読めばいいし。それについての感想なんて書きたいやつが書けばいいのだ。
 この体験は尾を引きそれ以後ずっと読書が嫌いであった。私が読書を面白いと思ったのは大学生になってからである。(入学試験は理系だったためになんとか受かった)
 私が最初に興味を持ったのは哲学や社会学の本であった。大学の教養の授業で初めて興味を持ったのである。それらに書いてあることは私が知っている本とは全然違った。ただなんとなく印象を書き連ね、感情を書いているのではなかった。それなりに体系立てて書いてあった。それに感動したのだ。
 今でも、私の読書の趣味は非常に偏っている。基本的に私が好きなのはドキュメントとか評論とかである。それ以外はあまり価値を認めない。物語はマンガで十分である。小説にはほとんど興味がない。
 最近の小説家ですごいと思ったのは町田康くらいである。それも能動的に読んだのではない。よく買う文芸春秋に載ってるから読んだのである。あとの近年の芥川賞受賞者は全然面白くない。やたらに難しい言葉で小説を書いている作家とか、物語の肝心な部分を書いていない小説とかは世の中になくてもいいと思うくらいである。
 話を戻そう。
 子供の頃に文章を書くのが嫌いだった私が文章を書きはじめたのも大学生の頃だった。当時、大学の情報の授業でHPを作れという課題が出た。もちろんブログなんて便利なものはなくてHTMLをゼロから書いたのである。そこで作ったHPに日記を載せ始めたのである。読者は友人数人であったが、そこで好きたい放題書いているうちに、書くことが気持ちよくなってしまったのである。
 私は自分の文章は下手であると思っている。だから切込隊長氏などを初めとする。文章の上手な連中がうらやましい。私の文章を読んでいる人は苦痛かもしれない。いや、きっと苦痛だろう。しかし、そう自覚しているのに書いてしまうのは何故であろうか?
 小学校の頃に感想文を書く際に味わった精神的な苦痛がトラウマになり、今その苦痛を世間一般に撒き散すことによって精神の平定を保っているのだと思う。
 これは迷惑行為だ。しかし、書かねば私はなんとなく寝つきが悪い。
 文句ある人は私の小学校の頃の文部省のカリキュラムを作った人を恨んでくれ(爆)